由緒

御本殿

 玉祖神社は大阪府八尾市神立の東方山腹にある式内社で、高安十一ヶ村(現在八ヶ村)の氏神です。高安明神とも呼ばれ、石段の右側には府顕彰天然記念物の大樹があります。

 

 神社の創建は垂仁天皇の御世に遡ります。垂仁天皇が玉垣宮(奈良県桜井市穴師)にて御政務を執っておられた時、沙本毘古の乱が起き、兵に付ける勾玉が必要となりました。そこで、皇子の五十瓊敷入彦命は、玉作部(宮廷の祭祀に用いる玉類の製作に従事していた品部)であり、玉祖命の子孫である第十二世建荒木命に河内国で勾玉を作るように命じました。そして、皇子の領地である高安郷を譲り受けて玉祖連一族が居住し繁栄しました。

 

 それから約四百年後の和銅三年(七一〇年)、生駒山を越えた所に平城京が遷都されました。玉祖連一族も宮廷に仕えており、祖先の玉祖命をお祀りすることになりました。そこで社殿を創建し、旧暦の九月十日に周防国(山口県防府市大崎)の玉祖神社から御分霊を勧請しました。

 

 承和三年(八三六年)には、神宮寺として薗光寺竹之坊が石段の直ぐ下にありましたが、明治初期の神仏分離の際に廃寺となっています。

 

 社殿は豊臣秀頼により修築されましたが後に落雷により消失し、享保十年(一七二五年)二月に再建されました。風雨の影響を受けていますが、その極彩色の装飾がなお美しく残っています。社務所の前には有名な豊臣秀頼寄進の慶長の石燈籠があります。

 

 七月一六日(現在は七月第二日曜日)に斎行する夏季大祭の渡御式は、高安祭と称して河内名物の一つに数えられ、御神輿の宮入は極めて壮観です。

 

 

 

 

 

主な宝物

 

北条時政の制札(重要文化財・旧国宝)

 文治元年(一一八五年)に北条時政が玉祖神社に下したもので、「平」の署名の下の花押は時政のものです。縦二〇センチ・幅一五センチ・厚さ一センチで、将棋の駒の形になった板に墨書きしています。国に伝わる禁制では最古のもので、板に書いてあるのも珍しい遺物です。

 

「河内国薗光寺は鎌倉殿の御祈祷所なり、寺ならびに田畑山林において、甲乙人らが乱入妨げあるべからずの状件の如し」文治元年、北条時政。

 

男女神像(重要美術品)

 この神像は二体とも桧材の一本造りで、男神像は五四センチで頭上に冠をいただき、前襟を広くあけた衣服を纏っています。女神像は四五センチで左膝を立てて座しています。平安時代の同社の歴史を物語るものとして注目されています。

 

一節切(ひとよぎり)の笛(在原業平)

 平安時代の歌物語の中に、大和の男が河内国高安郡に住む女のもとへ通ってくる話があります。神立の村外れの十三峠にかかる所を茶屋筋といい、在原業平の伝説で有名です。業平が神社に参拝した時、茶屋「福屋」の娘である梅野を見初め、しばしば訪れ松の木から笛を吹いて合図をしていました。ところがある時、東窓から覗くと梅野が自ら杓文字で御飯を盛っているので愛想を尽かし、業平は笛を神社に奉納して逃げ帰りました。その為、梅野は悲しみ身を投げたとされており、ここを恋の淵と呼んでいます。以来、高安の里では東窓を開けると縁遠くなると言われています。

 

畠山義就書状 豊臣秀頼寄進状 五社勤請文  その他、文書等多数有

 

 

楠の巨木(大阪府顕彰天然記念物)

 神社参道の階段、すぐ右側に楠の巨木があります。下の方で幹が三つに分かれ、幹の周囲は八メートルです。昭和二十四年に大阪府顕彰天然記念物に指定されました。

 

 

長鳴鶏(黒柏鶏)

 常世長鳴鶏として神話に登場します。山口県防府市の本社に伝わる黒柏鶏(国指定天然記念物)の子孫です。

 

 

 

玉祖神社

鎮座地

 

〒581-0855

大阪府八尾市神立5-93

 

電話番号

 

072-941-0944